愛するトリニティ兄妹に。
「他人に自分を貸してやる必要はある。だが、自分を与えることは自分だけに限るべきである」
モンテーニュの言葉を見たとき、胸が溢れそうになった。
なんで、こーゆー時に見つけるか、この言葉!
ヨハにぃよ、ミハにぃよ………。
悲しい。
あんなに可愛がっていた妹を守ることも出来ずに逝ってしまった。
絶望に愕然として逝ってしまった。
悲しい。
だって、特にヨハにぃは、うちらみたいに実存のことなんか知っちゃいないんやもん。
自分の力で自己を形成して外の世界に向って叫ぶことなんか、まだ誰にもおしえてもらっちゃいねーんだもん。
心の逃げ道なんか、まだつくること出来やしねーよ――――。
大抵のことにビクともしない力をつけるには長い経験が必要なんやもん。
人間にさー、大人にさー、叱られてさー、愛されてさー、ドっつきまわされてさー、もみくちゃにされながら生きて、ついてくる力なんよー。
その誕生の仕方で、考える機会の断片すら与えられなかった兄たちが、悲しくて悲しくてしょーもない。
誰にもおしえられず逝ってしまった。悲しい悲しい。
自分で知ることだって出来るんだよ、自ら手をのばして掴もうとすることだって出来るんやよ、ってことも知らず、逝っちゃったにぃにぃず………。
やったことの報いやと言われて、「あぁそうですね、イエースイエース」と親指立てて笑いながら頷くわたしと、「はぁ? わかるかぁ!!」と誰かに蹴りいれまくるわたしがいる。間違いなくいる。
やから、わたし、あんま同情はしんのよね、ルイスちゃんと沙慈くんには。
応援はするの。
だって同じ位置にいるんやからね、すごく応援はするの。
でも可哀相なんて思わん。同情もあまりしない。
(二人に襲いかかった一連の出来事はショックだったけど)
思っちゃいけないような気がする。
ルイスちゃんと沙慈君に失礼なような気がする。
それは、わたしが、わたしを救う術をなんとか知っているから。
自分を育ててくれた家族たちや文鳥友や隣人、逝ってしまった大好きな友達たち、先生、出会った皆におしえてもらった力があるから。
あくまでも、わたしの場合は、です。
(………いや、でもそんなに強くないけど。まだまだ修行が必要。死ぬまで必要。すぐグシャっと踏まれてグチグチウダウダミジンコになってしまうけど、しぶといんじゃないかな……諦め悪くてわがままで懐疑的です、自分勝手です、さるこは…)
(そして世界には死んだほうがいいって思えるぐらい悲惨なことが吐くほどにたくさんある。いっぱいある。狂ったようにある)
だから、どーしてもトリニティに気持ちが向ってしまう。
ネーナがいなくなったら、ヨハにぃとミハにぃが、ネーナすら、00の世界、この世にいた証もきえちゃうよ。
いないのと一緒、命もほんとは幻やけど、ほんとーのほんとーの幻になる。
生きのびてほしいよ。
ソレスタの人らも、トリニティ兄妹がいたことは知っているけど、なんにもならんよーな気がする。
トリニティ兄妹もソレスタの人らをなんとも思っていないし、ソレスタもトリニティを人間やと思ってもいないし。
どっちもどっちやけど。
やがてはどんな人間も死んで、なにもかもが消えていくんやけど、それでもネーナ生きててほしい。
あーもう。あぁぁぁもうっっ。
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